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芝川地区の名所・旧跡

平成22年3月旧芝川町は富士宮市と合併しました。旧芝川町にもガイド ボランティア団体(ふるさと案内人の会)が組織され活動していますので、 此処では芝川地区内の名所・旧跡のみご紹介します。

御祭神は菅原道真公と大納言久我長通公の二人を祀っています。久我大納言は後醍醐天皇の勅使として
富士浅間神社(現、富士山本宮浅間大社)へ派遣された帰途この地で病に倒れ、付き人、里人の必死の看病も空しく逝去。「余は菅原道真公を敬う。この地に祠を建て、余も共に祀ってくれ」
と遺言しました。
京都、駿河全域の奉賛を以って現社殿よりはるかに大きなものが建てられたが、天明の山火事で焼失。現社殿は明治13年伊豆の名工村上芳治郎時正により建造されました。

芭蕉天神

 

嘉永2年(1849)2月、京都より購入したもので、高さ1.3m、幅1m、全体を黒色漆塗りとし、随所に金箔を押した三間社入母屋造りの厨子。
仲哀天皇、応神天皇、神功皇后が祀られています。
棄損が甚だしいので、平成3年から4年にかけ、文化財建造物保存技術員の指導に
より、制作当時の手法により修復しました。

上稲子八幡宮の厨子

富士川の合戦に敗れた平家は、富士川を遡り稲子の里に多くの兵士が落ち延びたといわれる。以来源平の戦いは各地で行われ、惟盛は屋島の戦いに敗れ自殺したといわれています。しかし、稲子に伝わる伝説として、
惟盛は佐野主殿などを伴い此処上稲子の地に逃れ住んだという。
富士川の合戦の際、多くの家来が逃れ住んでいたことから考え合わせると、惟盛を祀る墓として全く根拠のないことではないと考えられます。

伝 平惟盛の墓

 

西山本門寺

黒門前の下馬札

本堂(元々は客殿であった)

富士五山のひとつに数えられる寺であり、開創は日興上人の弟子日代上人。
日代上人は北山本門寺を継いたが、地頭石川実忠との不和により北山本門寺を去り、西山郷の地頭大内安清の庇護のもと康永3年(1344)この寺を創建しました。
戦国時代 戦いに巻き込まれたりしましたが、勢力を保って江戸時代に入って益々栄えました。
特に当山中興の祖と云われた18代日順上人は、京都、大阪に 末寺を建立し、第108代後水尾天皇の御息女常子内親王の深い帰依を受け、常子内親王は両親の尊牌を当山に納めました。
それに、常子内親王の御息女僧正一位天英院が徳川6代将軍家宣の御台所であったため、幕府からも厚遇され、10万石の格式を与えられました。
特に天英院は、7代将軍家継が8歳で他界した後の8代将軍に、紀伊藩主徳川吉宗を強く押したため、 吉宗も恩義に感じて外護に努め、更に20代日円上人は天下の副将軍水戸光圀公の子であったので、 水戸家からの外護もあって隆盛を極めました。
幕末の安政大地震により、隆盛を極めた堂塔も大破し、その上明治になり廃仏毀釈、寺社嶺没収と、 急速に衰退してしまいました。
下馬札の立つ黒門から幅15メートル長さ1キロメートルの参道に足を踏み入れると、往時の隆盛が偲ばれます。
水戸黄門漫遊記でお馴染みの介さん格さんのうち、介さんは佐々(さっさ)宗淳(むねきよ)といい、武術もさることながら学問にも秀でており、
水戸光圀が「大日本史」編纂をするについて介さんは資料集めの任に当たり、全国各地をまわり遺文・遺事を探索しました。
本門寺20代日円上人は光圀の子であるため、光圀は我が子の様子を知るため、介さんが東海道筋の資料収集の折本門寺に立ち寄って様子を見てくるよう指示し、介さんは当山に一ヶ月ほど滞在し、日円上人の日課を細々(こまごま)記録して報告したようです。
日円上人は介さんが寺を去るに当たって、父親光圀への「本門寺由緒」を託しました。
介さんは帰国してから白銀2枚を添え礼状を出しており、その書状は今も現存しているという。

本堂裏手に樹齢4、500年の柊の大樹があります。
口伝ではありますが、此の下に信長の首塚があると
いわれています。
信長の墓は全国に19か所もあるといわれており、此処も真偽のほどは分からないが、現存する日順上人の内過去帳6月2日に『為 光秀 信長誅殺』と書かれていることからも、かなりの信憑性が窺われます。

信長の首塚

 

 

大鹿窪遺跡 縄文草創期の集落跡

平成20年3月28日国指定史跡。
発掘調査は、中山間地総合整備事業に伴い試掘調査した結果発見され、本格的に調査した結果、
約1万1千年前を中心とする縄文時代草創期の集落跡の遺跡であることが分かりました。
遺跡からは、国内最多の14軒の住居跡が発見され、2万点を超える豊富な土器・石器が出土しました。定住生活開始時期における住居構造を考える上で極めて貴重な遺跡であります。

現在は埋め戻され、小学校の校庭くらいの広さの場所に『7号竪穴状遺構』などの標が18本散在し建っています。

芝川に見られる ポットホール(甌穴)

芝川の河床は所々に古富士火山の溶岩流が露出しているが、その硬い岩面のくぼみに落ち込んだ小石が、急流のためにできる渦巻き流によって回転し、長い年月をかけて岩面を削り、次第に深く穴を掘り下げ、今に見られるようなポットホールができました。
穴の大きさは直径15cmから30cmに及ぶものなどいろいろであり、中にはポットホールの中に主役の小石そのものが、丸く磨かれ残っている場合もあります。

※各史跡は飛び地で公共交通機関運行ほとんどありませんのでマイカーをご利用下さい。